長いこと独りで過ごしていると、どうやら考え方の癖まで変わってしまうらしい。以前は、誰かと話したり、あるいは本を読んだりする中で、自然と「賛成する立場」「反対する立場」といった特定の役割に身を置き、その視点から物事を深く掘り下げることができていた。だが今は違う。何かを考え始めると、その賛成意見も反対意見も、あらゆる角度からの視点も、全部自分の頭の中だけでやろうとしてしまうのだ。まるで一人で討論会を開き、全ての参加者の役を演じようとするかのように。これは、頭の中という限られた舞台で、あまりにも多くの役を同時に演じようとする試みであり、思考のエネルギーを無駄に消耗させてしまう。
この「頭の中で全部やる」状態は、どうも思考の力を弱めてしまうようだ。かつて多重人格と呼ばれた心の状態について、現実には、脳の力が無理に分けられることで、本来一人の人間が持つはずの力に満たない、いわば「半人前」のような状態が複数生まれてしまうことに近い、という話を聞いたことがある。それと似て、頭の中で多くの役割を同時に演じようとすると、一つ一つの思考に割けるエネルギーが減り、結果的に全体の思考力が落ちてしまうのではないか。深く考えるための「探求力」が鈍り、問題の本質に迫れなくなる。広く物事を見渡す力も弱まり、考えが浅く、狭い範囲に留まってしまう。思考の「質が落ちる」と感じるのは、この探求力が低下しているからなのだ。
ただ、不思議なことに、この力が弱まった状態でも、ごくまれに上手くいく瞬間がある。それは、過去の経験や知識がすぐに役立つ状況で、かつ考えるべき範囲が非常に狭い場合に限られる。その狭い道の中ならば、力が弱まっていても、全ての可能性をしらみつぶしに調べ上げることができるのだ。これは、知識の少ない子供が、答えの選択肢が限られているような特定のクイズで、かえって大人より早く正解を見つけることがあるのに似ている。大人は多くの知識を持っているがゆえに、迷い、考えるのに時間がかかることがある。一方、子供は知っている範囲が狭いからこそ、その中を素早く調べ尽くせる。これは思考の「深さ」ではなく、一時的な「速さ」がもたらす結果だ。しかし、これは本当に稀な、幸運な瞬間に過ぎない。
では、世の中の多くの人々――私が「まとも」と呼ぶ、スムーズに物事をこなし、淀みなく生きているように見える人々――は、どうやって思考を操っているのだろう。彼らはきっと、無意識のうちに思考のエネルギー配分を調整しているのだろう。じっくり考えるべき課題には、集中力を高めて深く思考するモード(高コストモード)を。さっと判断すれば良いことには、エネルギーを節約する軽い思考モード(省コストモード)を、巧みに切り替えているに違いない。まるで、コンピューターが作業内容に合わせて性能を調整するように。そして、もう一つ重要なのは、彼らは特定の場面で「自分は今、この役割を担っている」と明確に意識し、その役割に集中できることだ。私のように、頭の中で複数の役を同時に演じようとして混乱することが少ない。だからこそ、彼らは考えがまとまらずに反応が遅れたり、物事を始める前から気が重くなったりすることが少なく、軽やかに日常を送れているのだろう。
ここまで、一人で考えを抱え込むことの難しさ、思考の探求力が鈍ることを語ってきた。だが、少し立ち止まって考えてみると、独りで完結させることの良さも、全くないわけではない。これは後からの言い訳めいたものかもしれないが。例えば、コンピューターシステムの作り方で、機能を細かく分けて作る方法(マイクロサービスと呼ばれる)と、一つの大きな枠組みの中で整理する方法(モジュラーモノリスと呼ばれる)がある。前者は柔軟だが連携が複雑になりがちで、後者はシンプルだ。また、AIの世界でも、複数のAIが協力し合う方法(マルチエージェント)と、一つの強力なAIが全てをこなす方法がある。これも、前者は高度なことができるが調整が大変で、後者は管理が楽だ。これらの例えを借りるなら、「一人で考える」のは、後者のシンプルな方法に近い。思考の前提となる情報(コンテキスト)を誰かと共有する必要がなく、頭の中でスムーズに繋がる。思考プロセス全体を管理する手間も少ない。役割分担に伴うコミュニケーションや調整の手間がない分、「楽」で「エネルギーを節約できる」面もあるのかもしれない。
しかし、結局のところ、こんな風にあれこれ考えてみても、行き着くのは「自分は、世間の人々のように巧みに思考を操れてはいない」という、一種の諦めに似た感情だ。彼らのように思考のモードを切り替え、適切な深さで物事を探求し、迷いなく一つの役割に集中することが、私にはどうにも難しい。頭の中で終わらない一人芝居を続け、エネルギーを空費し、浅い思考の海を漂っている。ごくまれに訪れる幸運な閃きに期待するしかない。今、こうして言葉を紡いでいること自体が、そのどうしようもなさ、迷宮の住人であることの告白なのかもしれない。この独りの思考の迷宮から抜け出す道は、まだ見えない。
脚注ミスってる部分があるのは仕方がないか。特に後半。